プリンストン大学 |
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デザインは、フィラデルフィアのロバート・スミス氏(Robert Smith) 石壁の厚さは、26インチあり、2年間にわたるアメリカ独立戦争を堪えぬきました。 当時独立戦争では、大学の図書館を焼失しています。 また、1802年、1855年に起こった火事にも耐えました。 独立戦争時、ナッソーホールは、戦時病院、バラックとすがたを変え、そして運命の日、1777年1月3日、ナッソーホールは1日に3回もその主を変えることになるのです。 独立戦争後、1783年の7月から10月まで、国会が行なわれました。 イギリスとの平和条約調印の知らせは、この地で受け取られました。また、アメリカ初の外務大臣の任命もここで行なわれました。
建物の周りをつた(アイビー)がからまります。毎年卒業生がつたを植えています。 ここからアイビーリーグが始ったと言われています。 |
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![]() 正面玄関。 両脇をプリンストンタイガーが守っている。 |
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ナッソーホール側面。奥に見える入り口は右の写真。 |
![]() この写真の中から向かって右にある出入り口から撮影したのが右の写真、 |
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1802年、ナッソーホール内部で火事が発生しました。この火事のあと、Benjamin
Henry Latrobeによりに修理されました。 その修理において、火災でももえないように、レンガの床、石の階段、鉄の手すり、そして、アメリカ初のシートアイロン(鉄のシート)により屋根が導入されました。 そして、1855年にも火災発生。 その後、John Notmanによりさらに、火災防止が追加され、同じに南側に現在のPrayer
Roomが増設されました。 1802年の火災修理費用は、プリンストンの町と町にすむ人々の寄付でまかなわれました。 ナッソーホールを目の前にして忘れてはならないことがあります。 200年以上前、1753年、その人生を投げ出し、大西洋を横断し、建築のための資金集めをした人物がいました。 その名は、Samuel Davies。 資金集めの旅は、1年半にもおよび、想像を絶する苦労があったといわれています。 資金集めは成功しましたが、行きは6週間でたどりついたイギリスも帰りは、3ヶ月もかかりました。 暴風雨に合い、乗っていた木製の小さな船は、航路を迷い、乗客すべてが病気となりました。 このまま船は沈み、2度と家族に合えない、そんな思いが、Samuel Davidの頭を駆け巡りました。 ようやく、帰国したときには、その成功にもかかわらず、出迎えも無く、馬を雇い、ようやくの思いでプリンストンに帰ってきたのです。 |
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